2010年10月24日

陸軍少年戦車兵学校にて

陸軍少年戦車兵学校という かつての大日本帝国陸軍の教育機関を ご存知ですか? 富士宮市の 北部に存在しました。

昭和14年から 終戦の20年まで、 延べ4000名の14歳から19歳の少年が2年間 ここで学びました。 少年戦車兵は若獅子の愛称で、空の若鷲(少年航空兵)と並び、国軍の双璧と讚えられたそうです。 

敷地が30万坪、100両近い戦車と自動車類が配備され、広い朝霧高原の一帯が演習場として利用されたそうです。

実は 9月4日付のブログで紹介した 八木洋行先生が あの芝居の後 「この富士宮市朝霧高原に かつて陸軍の戦車学校があったそうなんだけれど 次はそれをテーマに脚本を書いてみたい」と言われるので 私が「その戦車学校の 出身者を知っておりますので 紹介しましょうか?」ともちかけたのです。

私は 「建設省建設大学校(廃校。今、朝霧高原、道の駅 となっている場所に在った)」の出身ですが、そのときの恩師 吉留(よしどめ)先生が、この戦車学校の3期生で 現在は『若獅子会(同窓会)』の会長を務めています。

お二人の 出会いの場は 富士宮市の北部、上井出(かみいで)の 若獅子神社(http://www.wakajishi.jp/jinjya.html) としました。

陸軍少年戦車兵学校にて

                                (この写真は HPより転載)


かつて陸軍少年戦車兵学校があった敷地の一角に在り、太平洋戦争で戦死した同校の教官・生徒600余名の御霊が祀られています。



この「若獅子神社」に 本物の戦車が置かれています。
「帰還戦車」と呼ばれる大破した九七式中戦車(チハ車)です。  戦後 サイパン島で 港湾工事の際 地中に埋まっていたものが 発見されたそうで、それを譲り受けたそうです。
陸軍少年戦車兵学校にて

 

陸軍少年戦車兵学校にて

 









昭和50年に この地に安置された。

左側が 八木洋行先生。右が 吉留先生。






陸軍少年戦車兵学校にて








貫通弾の痕 が生々しい。 中から白骨死体と軍刀が発見され、機種から身元も判明し、遺族の元に 送り返すことができたそう。








社務所にて 吉留先生より 数々の貴重な資料も見せていただきました。 

少年達の 肉筆の手記も多数遺されており 時空を飛び越えて語りかけてくる 純真無垢な少年達の声が 直接胸に飛び込んで来ました。

この学校の存在を 一人でも多くの方に知ってもらうことも 私の役目かと 思います。




Posted by kotokuji at 21:13│Comments(0)
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