2011年10月31日

1000年の森へ

昨日 鹿児島より戻りました。 鹿児島中央駅を12時半の 新幹線「さくら」、新大阪で 乗り換えて、19時半に 新富士駅へ、 
近くなったものです。 
列車は 30分毎にあるので 好きな時間に行けばよく(指定席は買わないので)、 そして この貴重な時間で、本を2冊 読了することもでき 大満足、 飛行機よりずっと快適です。 (ただし、格安航空券は 新幹線より ずっと安いけど・・・)





10/27、 博多では 仲間が迎えてくれて、 『ハル』と会って、来年の 花まつりへの 出演を依頼し・・・



10/28、 先輩 光森さんの車で 宮崎へ・・
私は「産業開発青年隊」の出身で、その母体が 建設省であったため 「建設省建設大学校」と呼びましたが、その他に 県ごとに「産業開発青年隊」が存在し、北海道から沖縄まで、少なくとも10以上が存在していました。 今は 宮崎県に残すのみ、です。
その宮崎の 創立60周年、県知事や国会議員も招かれての式典の前に、私が 講演をさせていただきました。

 
  写真に写っている女の子は ここの修了生、 わずかですが 女子もいます。

「産業開発青年隊」、働きながら学ぶ、というこの組織が 是非 存続して欲しいと願います。
→ http://www.kensetsugijutsu-m.jp/seinentai/index.html


10/29、 先輩、砂土原さんが 理事を務める 「どんぐり1000年の森」に案内していただきました。 






→ http://www.donguri1000nen.jp/







発足して 18年、 
実際の植樹を始めてから昨年までの14年間で、
実に48,1ha  11万3千本の どんぐりを植えました。 

水の無い沢から 水が流れ出し、着実に成果があがっています。









前々から「どんぐり1000年の森」とは 実に いいネーミングだと思っていたのですが  都城(みやこのじょう)市役所職員であった 砂土原さんが 景観に関わる仕事に携わっていた時、 『景観10年、風景100年、風土1000年』 という言葉と出会い、「何だ、自分のやっていることは10年の仕事だったのか」 と・・・
大きな夢と期待を込めて、 「1000年の森」 にしたそう。


   本部のハウス












   ターザン和尚?

 







1000年後・・・ 想像するだけで 楽しいですね。 
我々の山に 桜が成長する 50年後を見られない・・・ などと 嘆いていたことが 恥ずかしい。


  イチイガシの森にて 砂土原さんと 






   富士山が迎えてくれた。  
     ちょこっと雪をのせた姿が 何となくイジラシイ・・・  と 毎年 思います。


*この日、 前からの念願であった知覧に行き 泊まってきたのですが、 次回に・・・  


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2011年10月26日

四季彩の森に

先週、先輩の葬儀で大阪に行き、 今週は 月曜~火曜日にかけて 名古屋へ。
こちらは檀家さんの 葬儀です。 
月曜未明に電話が鳴って、もうこの時間の電話は 訃報、と覚悟を決めて 受話器を取ります。
亡くなられたのは 94歳のおじいさんでしたが、たくさんの参列者が見えられ、生前の徳と、ご家族の日ごろのお付き合いの深さが こんなところに現れるナ と思いました。
名古屋でのお葬式は 初めてだったので 司会の方に 通夜の平均的時間を尋ねてみたところ、一番早いお寺さんが15分、長い方が50分、あまりお経が長いと、参列者が 後ろに立っている司会者の方を振り向いて「長いゾ~」という サインを送ってくるとのこと・・・
私はいつものように 法要30分、法話が12分、 遺族の方に喜んでいただけて、何よりでした。





名古屋には一泊し、昨夜戻ってきて、今日は 前からの予定通り 県の 『種育場』 に 苗木700本をもらいに行ってきました。



『YUNOどんぐりの会』のメンバー、14名が 平日にも関わらず集まってくれて、
三優建設 →http://www4.tokai.or.jp/sanyuu-kensetsu/main.html の社長、菅沼さんが 重機を提供してくれ、 
予想していたより 大変な仕事ではありましたが、 機械と 人数のお陰で 16時に終了することができました。









 (三優建設の 菅沼社長)









菜の花畑に 仮植え



整然と移植された 苗を見て、 皆でしみじみと感動を分かち合いました。 




第一ステップ終了! いよいよこれから 第2ステップの植樹に とりかかります。





今回 植樹する木の種類は約20種、これが成長したら 四季折々の花と紅葉、そして実がなる・・・ 
すばらしい森となることでしょう。



                種育場で 30年前に植えられた モデル林。 

我々の山も 30年たったら このような美しい森に変わります。
それまで生きてるかな~? 生きてたって ぼけてたら なんにもならないしな~ などと・・・

森の名前は ロマンチスト 長谷川義教(よしのり)事業部長の提案する
『四季彩(しきさい)の森』で 決まり! でしょうか。





* 明日から 九州に行ってきます。 宮崎で 講演を頼まれていて、 ついで 福岡で 『ハル』と会い、 ついで 前から行きたかった 知覧 まで。  30日の夜、帰宅の予定。  
片付けやら 準備やら 母の世話やらで てんやわんや・・・
やり残したこともいっぱいですが 大まかなところで ヨシとして、 
それでは行って来ま~す。


  


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2011年10月26日

四季彩の森に

先週、先輩の葬儀で大阪に行き、 今週は 月曜~火曜日にかけて 名古屋へ。
こちらは檀家さんの 葬儀です。 
月曜未明に電話が鳴って、もうこの時間の電話は 訃報、と覚悟を決めて 受話器を取ります。
亡くなられたのは 94歳のおじいさんでしたが、たくさんの参列者が見えられ、生前の徳と、ご家族の日ごろのお付き合いの深さが こんなところに現れるナ と思いました。
名古屋でのお葬式は 初めてだったので 司会の方に 通夜の平均的時間を尋ねてみたところ、一番早いお寺さんが15分、長い方が50分、あまりお経が長いと、参列者が 後ろに立っている司会者の方を振り向いて「長いゾ~」という サインを送ってくるとのこと・・・
私はいつものように 法要30分、法話が12分、 遺族の方に喜んでいただけて、何よりでした。





名古屋には一泊し、昨夜戻ってきて、今日は 前からの予定通り 県の 『種育場』 に 苗木700本をもらいに行ってきました。



『YUNOどんぐりの会』のメンバー、14名が 平日にも関わらず集まってくれて、
三優建設 →http://www4.tokai.or.jp/sanyuu-kensetsu/main.html の社長、菅沼さんが 重機を提供してくれ、 
予想していたより 大変な仕事ではありましたが、 機械と 人数のお陰で 16時に終了することができました。









 (三優建設の 菅沼社長)









菜の花畑に 仮植え



整然と移植された 苗を見て、 皆でしみじみと感動を分かち合いました。 




第一ステップ終了! いよいよこれから 第2ステップの植樹に とりかかります。





今回 植樹する木の種類は約20種、これが成長したら 四季折々の花と紅葉、そして実がなる・・・ 
すばらしい森となることでしょう。



                種育場で 30年前に植えられた モデル林。 

我々の山も 30年たったら このような美しい森に変わります。
それまで生きてるかな~? 生きてたって ぼけてたら なんにもならないしな~ などと・・・

森の名前は ロマンチスト 長谷川義教(よしのり)事業部長の提案する
『四季彩(しきさい)の森』で 決まり! でしょうか。





* 明日から 九州に行ってきます。 宮崎で 講演を頼まれていて、 ついで 福岡で 『ハル』と会い、 ついで 前から行きたかった 知覧 まで。  30日の夜、帰宅の予定。  
片付けやら 準備やら 母の世話やらで てんやわんや・・・
やり残したこともいっぱいですが 大まかなところで ヨシとして、 
それでは行って来ま~す。


  


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2011年10月22日

宝永山

大阪から帰った翌日、宝永山に行ってきました。
宝永山(ほうえいざん)とは、富士山の中腹に位置する 側火山で、宝永4年(1707年=304年前)の宝永大噴火で誕生しました。 標高は2,693m。 富士山は この宝永の大噴火以降は噴火していません。

我家から見た 宝永山; 富士山の東南斜面(画面右の斜面)に ポコッと 飛び出て見える。

                                       (クローズアップ↓)


















       間近から見ると、こんな です。




宝永大噴火は ガス爆発で 溶岩の流下は見られず、 大量の火山灰が 折からの偏西風に乗って、100km離れた江戸の町にも積もったそう。(噴火は12月16日から同月31日まで続いたそうです)


  (火口に下りる道)



                             (火口)

このような 過酷な自然条件(土がない、水がない、寒い、風が強い、上からの土石流等々)の中で 植物が生きる場所を探し、根付いている姿に感動しました。


          (火口にポツポツと見えているのが 植物です、今は枯れているので 小金色に見える)



今回の同行者は 『人づくり推進員』のお仲間です。 
「人づくり推進員」とは 静岡県文化・観光部の事業で 知事から委託されます。
家庭や地域における子育てや人づくりの助言を行う、具体的には 小中学校・幼稚園・地域等が開催する 懇談会の講師を勤めたり、自主的な講座を設けたり、定期的に委員同士のコミュニケーションの場を設けたり・・・ 
私は 今年度より 前任者に頼まれて、 断る言葉もないままに引き受けてしまいました。
第一回目の仕事が 来月16日、富士市の幼稚園、そして同じ日の夜が 富士宮市での市民講座、 偶然同じ日ですが、 富士市は 幼稚園児のお母さん(平均年齢30歳) 富士宮の方は 子育てもとっくに終わったお母さんたちや お父さん(平均年齢60歳?) 同じ内容というわけにはいかないでしょうね~。 

このジワーッとくる プレッシャーから 早く解放されたいです。



                     (冨士山五合目より 富士宮市を望む)
  


Posted by kotokuji at 17:46Comments(0)

2011年10月18日

まず臨終の事を習うて

マレーシア在住の先輩が 所用で来日し 滞在先の大阪のホテルで 高熱を発し、 2日後、収容先の病院で 死亡。 病名は マラリアでした。



 先輩は 建設請負業者として 最近では アフリカで 活躍しておりました。 最後は南スーダン ジュバにて ナイル川に橋を架ける仕事に携わっており、 この地で感染し、潜伏期間を経て 発症した、と推測されます。 

ジュバは 白ナイル川の上流に位置し、40年ほど前、私も行ったことがあります。 ジャングルの中の 舗装道路もないような田舎町でしたが、 今年の7月9日、南スーダンが独立し、その首都となったそう・・・ 
今回の訪日では 今週末に 私の寺に泊まって 富士山を見ながら 酒を飲むことを楽しみにしている、 という連絡を受け取ったばかりでした。

訃報が入ったのは 昨日の朝、 同期の先輩からでした。 取る物も取り敢えず 大阪に急行、 病院の遺体安置所にて 変わり果てた 先輩と対面しました。

言葉も何もなかったです。 

マレーシアから駆けつけた お嬢さんが 健気にもシッカリと対応していて 、さすが 先輩の娘さんだ、と 感心しました。 崩れ落ちそうな心を保つだけでも やっとだと思うのに・・・ 
日本語は堪能ですが、彼女にとって ここは異国の地です。



このような時に 思い出されるのが 日蓮聖人 妙法尼御前御返事(みょうほうあまごぜんごへんじ)の一節

『人の寿命は無常なり。
出つる息は入る息を待つ事なし。 
風の前の露、尚譬(なおたとえ)にあらず。
かしこきも、はかなきも、老ひたるも若きも定めなき習ひなり。
されば先(まず)臨終の事を習ふて後に他事(たじ)を習ふべし』


――人の命とは、はかないもので、最後に息をフーッと吐いて、永遠に吸わない時が来ます。
それはまるで葉っぱの上のつゆが風でポロリと落ちるよう・・・  
頭がいいとか悪いとか、年をとっているとか若いとか、まったく関係なく、誰にも公平に、その日が来ます。  
ならば、まずはその心構えを学びましょう――




        (セミプロ ミキオちゃんに頼んで 撮ってもらった作品)

私の弟は事故死、 妻は くも膜下出血、 その直前まで 死ぬことは予想していなかった。
東日本大震災で 亡くなった 2万にも及ぶ方々も その日が最期になるとは おそらく 誰一人予想していなかったでしょう。 

臨終の事を習う とは
一日一日をしっかり生きること、 
そのうちに・・・ と先延ばししないこと、 
いつ どこで どのような状態で 最期の時を迎えても 周りが困らないような状態を 常に保つ事、
等々・・・
 
改めて考えさせられました。 




明日(10/19)、大阪で荼毘に付され 遺骨はお嬢さんに抱かれて マレーシアへ・・・ 

日本各地から仲間たちが 最後のお別れに来てくれる模様、 

ご家族にとっては 大変なことでしたが 
彼が 最期の地として 日本を選んだのでしょう。  

私も もう一度行ってきます。
 













先輩の名前は 仁藤朝雄。 連絡の届かなかった 関係各位に 謹んでご報告申し上げます。




この富士山を 一緒に眺めがら 男同士のロマンにひたるはずだった・・・
素朴で やさしくて 熱きロマンチスト、 仁藤先輩!
現代の マレーシアのハリマオ(虎)と 東京12chで 特集されたこともあった。
永遠に!!  


Posted by kotokuji at 16:15Comments(0)

2011年10月14日

芳枝さん85歳に

昨日は 芳枝さんの誕生日でした。

毎朝、冷蔵庫に貼り付けたホワイトボードに その日の予定を書き込みます。



昨日は これを見て、
「エ~ッ、今日はアタシの誕生日~? 知らなかったぁ~」 などとニコニコ・・・
見るたびに同じ言葉を繰り返し、 こちらも
「オメデトウゴザイマ~ス」 を繰り返し、
何度かやるうちに 頭に定着するみたいです。


夜は 二人の妹に来てもらって ケーキとワインで乾杯、





すぐにプリントし 見せたら、
「いい写真だね~」
「誰が 撮ったと思う? 僕はここに写ってるでしょ」
「ホントだ~ 誰でしょ」
「照潤(7年前に亡くなった私の弟)だよ」
「あぁ~ そんなムカシの写真なんだ~、 だから 赤っぽいんだね」
・・・どこまで ぼけているのか とぼけているのか よく解りません。

皆で 大いに笑って お開き、 
「おかげさまで いい誕生日だったヨ、 アリガトウ」 と・・・

母が引き揚げた後、
「こうやって毎年誕生日のお祝いができる アタシラも ホントに幸せだね」
と 妹がポツリ・・・






   『YUNOどんぐりの会』



いよいよ植樹する場所に 添え木としての竹(変な表現ですネ) を立て始めました。
この竹に 色分けしたマークを入れ、苗木にも同じ色の荷札をつけて、植える時の混乱を無くそう、 という高度な作戦(?)


  (9日に来てくれた メンバー)

今度の日曜日(16日)も 引き続き 作業を行います。 お手伝いできる方、お願いします。





           (本日早朝、ちょこっとだけ 富士山が見えた)  


Posted by kotokuji at 20:04Comments(0)

2011年10月11日

通夜の長さ

先日、知人のお母さんが亡くなり お通夜に参列しました。 他宗で お経も異なるため、一般席に座っていたのですが・・・
開式間もなく お焼香が始まり、その長い列が途絶えて間もなく、お経も終わり、閉式。 導師様は 祭壇横の扉から スタスタと退場、 開式から閉式まで 遺族の挨拶も含めて25分間、でした。 
「短いッ」というのが 私の感想。

ところが 駐車場に向かって歩いていると、後ろから 男の人の会話が聞こえてきた・・・
「短くて助かった~」
「ほんとに」



私の通夜は 約45分間、
「興徳寺さんは 丁寧で・・・」という声も聴かれますが、 「興徳寺は 長い」と言われることもあります。 前者は おばあさんたち、後者は気のおけない同級生たちです。
お坊さんになったばかりの私は とにかく丁寧に、そして基本に忠実に、と日蓮宗の教科書に則った 式次第で法要を勤め、そして法話(通夜説法)を行います。 当初は法要が35分、法話が15分で計50分でしたが、意識的に少し短縮しました。

私の師匠は「亡くなった方の霊に対して お経をあげているのであって、参列者のためでは、ない」と言います。 お経をはしょるなどもっての他だと・・・ 
私がもっとも力を入れるのは、「法話」。 絶好の布教のチャンスです。
まず 聴いてくれるという体制が整っていること、皆がとってもスナオな気持になっていること、そして 参列者には他宗の方も いっぱいいるということ・・・ このような機会は、めったにあるものではない。



私は、故人の足跡を紹介して、その生き方の中から、仏教的な学びを導き、最後に全員にお題目を唱えていただく、というスタイルをずっと通しています。
内容は毎回変え、固有名詞や、固有の数字(誕生日など)がいっぱい出てくるので 絶対に間違いは許されず、それはそれは緊張します。 「紙も見ないで よくペラペラしゃべるもんだ」などと言われますが、それだけ練習して臨むからです。





檀家さんのおばあさんが亡くなって、昨夜が通夜でした。 法話を10分間でまとめたかったのですが、結果的には12分かかってしまいました。
とっても元気で明るい方でしたが、突然 右腿が腫上り、かかりつけの病院では 病名を特定できず、痛み止め注射を打っただけ、その翌日、「今日も病院に行ってくるから・・・」と言って、息子夫婦がそれぞれに勤めに出た後、自宅で亡くなった・・・ 警察医の推定死亡時刻、午前10時、夕方 帰宅した お嫁さんが第一発見者でした。
 未熟な私は 遺族を慰め、参列者を納得させる言葉を持ち合わせていない、 

でも、語らなければならない・・・ 






「親切とおせっかい」にも似て、 
一方的な押し付けにならず、
自己満足に終わらないよう、
慣れから来る 慢心を起こさぬよう 
これからも研鑽してゆきたい、と思います。











短い通夜が 歓迎される、 葬儀の中で 初七日、49日忌の法要も一緒に 執り行う、 葬儀はやらない、
すべて 生きている人の都合で 決められてゆきます。

葬儀の主役は 亡くなられた方の 霊 ではないのでしょうか?





  


Posted by kotokuji at 15:01Comments(0)

2011年10月07日

地ごしらえ

東北から帰った翌日の朝のこと、 前夜に雨が降って、富士山は5合目まで雪化粧でした。
その美しさ、
地元に住んでいても 感激します。



           (この季節の雪は 1日で溶けてしまいます)

写真を撮っていたら 地元の小学生が野外授業に来てくれて 一緒に遊んでもらいました。


菜の花畠が 今は格好の原っぱ、
バッタやコオロギ、蝶やトンボなどを 夢中で追いかけておりました。





裏山は 植樹のための準備が進んでいます。

苗の添え木にするための 竹の採取(私たちが東北に行っているあいだ、皆がやってくれました。 必要な1000本を 2日間で・・・)
山の方は 地ごしらえ、と言って 針葉樹を伐採した跡地の整地。
なかなか地味な作業ですが 今日も平日なのに 4名が来てくれました。


 見晴らしが とてもよい所です。

何をやるにしても この基礎工事にあたる部分が大事ですね。
土木の世界では ムカシから 「段取り八分(だんどりはちぶ)=準備がきちっとできれば、その仕事は 80%成功したも同じ」と言って、完璧な準備の大切さを 伝えてきました。

そして 山に木を植える、という一見単純な仕事にも それなりのプロセスが必要だということを 遅ればせながら知りました。





『YUNOどんぐりの会』は 本格的に 会員募集を始めました。 
作業を手伝ってくださる方、 暖かく見守ってくださる方、 双方ともに歓迎です。 
会費は 年間3千円、苗木や材料の購入、その他必要な経費に充てます。
最初の会員目標数を 100名と設定しました。
どうぞよろしく お願いいたします。



  


Posted by kotokuji at 21:33Comments(0)

2011年10月04日

おでってさ行ってきました

南三陸町に おでってに行って来ました。

   (おでって とはお手伝いのことです)

5ケ月ぶりの南三陸町、

全体として よく片付けられていて、 自然の力もすごいけれど 人間の力もスゴイ!と 思いました。
ガソリンスタンドは 壊れた建屋で営業を再開し


プレハブのコンビニも・・・


防災対策庁舎


将来への教訓とするため、残すべき、という意見もあったそうですが、遺族の思いを尊重し、解体することに決まったそうです。
 

何も変わらないものもあります
      


         
赤く錆びたままの線路、復旧はいつの日だろうか?




深刻なのは 地盤沈下



満潮時には水浸しです。 この場所を どのように復興させるのか? 
簡単なことではありませんが、英知を絞って、良い方向を探って欲しい、と思います。







今回のボランティアは 重機で片付けられた住居跡の ガレキの撤去、
堆積したヘドロの中から ガラス片や かわらの破片などを取り除く地味な作業ですが、人力でしか解決できません。

 


気負わずに
「おでって(お手伝い)させてください」と 作業に汗を流し、地元の方のお話を伺い、
帰りには おいしい海の幸を楽しんだり、秋の東北を旅したり・・・
ボランティアはこうでなければならない、という絶対的な定義はありません。
まずは 今の被災地を 体で感じて欲しい、



日本中から たくさんの若者たちが 駆けつけてくれています。 
こういう若者たちを見ると まだまだ 日本も捨てたものではない、と思えます。

            輝く明日が必ず来ます。


            (南三陸町ボランティアセンター内部)

南三陸町災害ボランティアセンター では 年内休まず運営する事を決定しました。 
http://msv3151.c-bosai.jp/group.php?gid=10407




  (志津川湾から昇る朝日、何事もなかったかのような 静かで美しい海です)
  


Posted by kotokuji at 23:02Comments(0)