2014年06月24日

それぞれの復興

久しぶりに 宮城県~岩手県の被災地を訪れました。 いつも一緒だった ミキオちゃんが 仕事でどうしても行けず 静岡の野澤さんとの二人旅でした。

この時点で 私にできることなど何もないのですが 被災者の方々の今の声を聞き、復興の様子をこの目で確かめることによって 気持ちだけは 東北につなぎ止められています。

あれから3年と3ケ月、 ガレキは片付き、そこここに復興のきざしは見えているようですが・・・ (東松島市野蒜)




(震災直後)



実際に仮設住宅に暮らす被災者の方々に 「ここを出られる予定は?」と尋ねると 地方自治体によって 随分開きがあることが分かります。 



大船渡市の 平山さんは 来年6月に 
マンション型の賃貸し復興住宅へ、

 「ばあちゃんと 大きな声でお話しできるねって
 言ってんだ~」 と嬉しそうでした。

 それでも 避難所~仮設での生活が 4年です。





石巻市の杉山さんは
 「はっきりしたことは何一つわからないンです~」
 と あきらめ顔、

先日行なわれた抽選にも外れ、
これから建築する場所を申し込んでも最低2年? 

仮設住宅のたった1坪のリビング&キッチン、
他に6畳間2つに成人家族が3人の生活から 
いつ解放されるのでしょう?




石巻市の 裕子さんは 体調を崩し
母親の家で暮らしていました。


あの時 避難所で出会った
中学生の光ちゃんも
高校2年生






釜石市で出会った方は 元の住所を嵩上げすることがようやく決まったので これから盛土・造成工事に2年、それから住宅建築で 計4年、「今 81歳の母親に新しい おウチに済ませてやることができるかどうか」とため息をつき 「オリンピックが決まった時、これでまた復興が遅れる、と思いました」と・・・






破壊された建物や 打ち上げられた船なども ほとんどが片付けられましたが、
慰霊碑や祭壇が設けられているところでは お経をあげさせていただきます。


200名近くの犠牲者を出し 「釜石の悲劇」 と呼ばれた 鵜住居(うのすまい)防災センターも 建物はすべて取り壊され 慰霊のための祭壇が設けられていました。





上の画面 右隅の建物の
内部です。

祭壇が祀られ
ご遺族の方々により
美しく保たれています。








石巻市立大川小学校



 (74名の児童と10名の先生が犠牲になった)
;必ず立ち寄るところです。 

いつも新しい花が供えられ 
祭壇もきれいにお掃除がされています。 











今も 訪れる方が後をたたない。
来るたびに思います。 何故 隣接した山に逃げず、 わざわざ川の方に向かったのか?


( 大川小から 堤防を望む。 津波は あの橋を越え 子どもたちと先生を呑み込んだ) 

ここは 海から4km、 津波、という想定がなかった? 
同行した野澤さんが 北上川を眺めながら ポツリ、 「これ どう見たって 河じゃない、 海ですよね~?」
そこのところの認識の差なのでしょうか?


南三陸町防災対策庁舎
南三陸町の悲劇のシンボル的存在、取り壊しが決定しています。

(震災直後)


(現在)



 被災者をして 思い出したくない悲しい場所、という気持ちは よく理解できますが 
私の個人的な意見としては 残して欲しい、 

津波は屋上のさらに3m上まで達した、という事実を知り、祈りを捧げる場所として・・・




観光客も必ず立ち寄る場所ですが 
中には 笑顔でポーズをとるバカ者もいるらしい、
言語道断!です。

バスを降りるとき 
火の点いたお線香を渡してあげれば 
皆きっちりと手を合わせるのではないかと
 提案します。 





宝来館にて










釜石市鵜住居(うのすまい)区
宝来館(ほうらいかん)の女将、
岩崎昭子さん。









従業員・顧客をイチ早く裏山に避難させ、自らは まだ避難されていないご近所の方を救出するため山を降りたところで 津波に巻き込まれ、九死に一生を得た方、 3階まで水に浸かった宝来館を 見事一年後に再オープンさせました。  一度、泊まってみたいとずっと思っていたのですが このたび念願叶いました。

あの時のこと、これまでのこと、復興に関する思いなどを 訥訥と語ってくれました。

「防潮堤の高さをいくらにするか、が問題ではない。 自分たちにとって ここにどんな未来や故郷を作りたいのか、そのために何が必要なのか」 
「大学の偉い先生が アーデモナイコウデモナイと言っているが そんなことより まずスコップを握って 作業しろ!と言いたい」 
「防潮堤が命を守るのか? 命を守るのは 自分たち一人ひとりでは」
「防潮堤に 膨大な予算を使って 海も見えない生活をするより、津波が来たら 逃げればいい。」 等々・・・  被災地でいつも私が感じ、でも話せなかったことを 被災者の方から語っていただいたことに 感激いたしました。



車イスで避難できるようにと
森林組合とボランティアさんたちの
協力を得て
木材で作った避難道路を
1年がかりで 完成させました。

今度ここに 子どもたちのための
大きな滑り台 を
作るのだそうです。




―― 太平洋プレートによって 大きな恩恵を受けてきた(鉄の産地)この町が 今度は太平洋プレートで被害を受けた。 
1000年のスパンで物事を見ると すべては大きな流れの中のひとコマ、亡くなった人の魂も 生きている人の魂も 皆ここに居る。 これからの未来を見据えて 1000年の森を作る ―― という熱い思いに 感動・感服でした。




それぞれの自治体が 『復興』 というキーワードに向けて 邁進していることは確かでしょう。 被災者の方々の 立場・環境・考え方など様々な違いのある中で すべての人を満足させる方向づけを決定することは 容易ではない、ことも理解できます。

ですが 仮設住宅に暮らす方々を 一刻も早く 楽にさせてあげて欲しい、と切に願います。 5年も6年も 仮設で暮らすことなど 誰が想像したでしょうか?





 『私たちは どのような未来を目指しているか?』  日本中の一人ひとりが 考える時だ、と改めて思いました。


*来週、月~木曜日(6/30~7/3) 北海道に行ってきます。 18歳の時、過ごした別海町の牧場、昨年、出発の日に お葬式となって キャンセルとなった一人旅です。








  


Posted by kotokuji at 11:01Comments(0)

2014年06月12日

誰と行くか

山形へ行ってきました。


誘ってくれたのは 丸山さん、 横浜で事業を立ち上げ 大きな企業に成長させ、いまは会長職に退いていますが、83歳の現役です。 20年前に知り合って 以来、親しくお付き合いをさせていただいてます。



(左から 
丸山さん、
塚越さん、
古守さん、
関根さん)










今回の幹事役が 関根さん、81歳、某大手食品会社の工場長から転じて、弁当会社を立ち上げ、今 会長職。

古守さんは 70歳、甲府の米販売会社の現役社長、 塚越さんは 年齢は私と同じくらい、北関東最大の屋根工事会社を経営しています。




東京駅発の新幹線で落ち合い、山形駅へ、ここで塚越さんが車で迎えてくれて一路銀山温泉へ、
(塚越さんは 茨城県から 350km走って山形まで来てくれました)

銀山温泉(尾花沢市);大正末期から昭和初期に建てられた洋風木造の旅館が銀山川の両岸に沿って軒を並べています。 車は乗り入れ禁止なので 川の両側をブラブラと歩きます。













 『銀山荘』 
 部屋の檜の露天風呂。










翌日は 「最上川舟下り」、約12kmを1時間かけて、ゆっくり下って行きます。




 最上川 このあたりで 川幅170m 水深10m まさに日本の大河です。







美人の船頭さんの
 「最上川音頭」を聞きながら・・・ 

なんとも贅沢な時間です。










                           「山寺、立石寺」


                   





 奥の院まで 1千段の階段、

 丸山さんたちが下で待っていると言うので 
 古守さんと二人で 駆け上がるように登ってきました。

 予定時間1時間を35分に短縮!















2日目の夜は「天童温泉」 
予約したホテルは 丸山さんたちが3年前に宿泊し その時に接待してくれた仲居さんに会いたい、という密かな(?)希望があったのですが どうしても席を外せない、とやんわり断られてしまいました。 
翌日 分かったことなのですが 皇室の紀子様が宿泊されていて、そちらの接待係だったの由、 居留守を使われたのではないことが分かって 「納得!」でした。


最後に訪れたのが 「蔵王」です。



標高1500mの「御釜」付近には 雪が残っていました。 





久しぶりに 何も考えず ノンビリと楽しい旅行をさせてもらったこと、
帰りの新幹線の中で 「誘ってくれて ありがとうございました」 と 心から お礼を述べました。 
そしたら 誰ともなく 「本当に いい旅行だったね~」「最初から最後まで笑いっぱなしだったね~」「いや~ ホントに楽しかった」・・・

そして 「旅行は どこに行くか、よりも 誰と行くかが大事、 って聞いたけど ホントだね~」 と・・・


人生の大先輩たちから いろいろなお話を伺いました。
大成功の裏には 結構な失敗もあって 笑いながら話してくれたけど、その時に諦めなかった 強い思いは何だったのか? 
多分、未来というものを信じていたのだろう、 そこが凡人との違いなのだ、 と改めて思いました。

本当に良き時間を過ごさせていただきました。

                    蔵王の御釜付近、子どもたちが遠足に来ていて 何とも可愛らしい。



*15日()は 『興徳寺をきれいにする日』 7:00~ です。

その翌日(16日)から  久しぶりの東北被災地に行ってきます。 何ができるわけでもないのだけど 被災地の現況を見て、お経をあげさせていただいて、 仮設住宅を訪ねて・・・  
少なくとも 私の心が 東北とつながっていることを 再確認するために。
  


Posted by kotokuji at 12:03Comments(0)

2014年06月02日

魔法の杖

『寒行』で寄せていただいた浄財を 地元柚野小学校の図書館に寄贈するようになって4年目、今年も15万円を寄贈させていただきました。

今日は 購入した図書の「贈呈式」。



朝礼で カワイイ後輩たちを前に こんな話をさせていただきました。

 柚野小学校の全員 150名くらい


「本を読むって とっても大事です。 私も 小学校の頃 本が大好きでした。
 ピーターパンを読んだら、生まれて3日以内の赤ちゃんは皆空を飛べる、と書いてあったので それを本気で信じました。
ガリバー旅行記、ドリトル先生航海記、などを読んで まだ見たことのない広い世界に夢を膨らませていました。 本を読んで 想像の翼を広げると、鳥になって空を飛んだり、魚になって海を泳いだり、虫になってゴソゴソと葉っぱの上を歩き回るなんてことが 簡単にできます。 

皆さんは 大きくなったら何になりたいですか? その姿を思い浮かべてみてください。  いつもいつも想像していると、神様がきっと君たちのお手伝いしてくれて 本当に夢が叶うんです。」

              (山ぼうしの花)



私が小学校の頃 夢中になって読んだ本のひとつ、「魔法の杖」

主人公のビル少年は、魔法使いから「魔法のつえ」をもらいました。 その杖は 三日月の形をした取っ手がついています。 それを3回クルクルッと回して 行きたい所を言うと、世界のどこへでも 一瞬にして飛んで行くことができるのです。
この杖を使って 幽閉されていた王子様を助ける、 と冒険ドラマがあるのですが・・

ある時、ビルは家族と サーカスを見にゆき 入口でその杖を預けるのですが、帰ろうとしたら 杖とおじさんが消えていた・・・ 何でも このおじさんが 杖をいじりながら 「天国というところに行ってみたいもんだな~」 とつぶやいた瞬間だった と・・・




こんな内容だったと思います。 55年経って 今だにくっきりと思い出せる話、ってスゴイ!

「魔法の杖」は一瞬にして 時間も空間も越える、 
子ども向けの童話でしたが このことは霊の世界からみれば 何ということもないな~ なんて今は思えます。





世界を旅し、
ごく当たり前のように
ブラジルまで行ったことも 
小学校の時に読んだ本のオカゲです。







図書委員のみなさんと校長先生。 川手正順上人。







これが 「お寺文庫」

今年購入されたものは まだ入っていません。

担当の先生と 図書委員たちで 購入する本を決めるので
子どもたちに人気のある本ばかりだそうです。

貸出の率も高いらしく 嬉しい限りです。









改めて今 本を読む時間をとりたい、と痛感しています。






*明日から3日間(6/3~6) 山形へ行ってきます。 大先輩たちのプライベート旅行に誘っていただきました。 東北新幹線、山形行の指定席の切符だけが郵送されてきました。 集合場所も何もなく ともかくそれに乗ればヨイノダ、ということらしいです。 







  


Posted by kotokuji at 21:01Comments(0)